横浜に路面電車が走っていた時代があったことをご存知の方も多いでしょう。
横浜の路面電車の歴史は古く、明治37年(1904年)7月15日に横浜電気鉄道(株)が市内電車を開業したのがはじまりです。
関東大震災や太平洋戦争による空爆で大きな被害を受けたにも関わらず運行を続けましたが、昭和30年代の後半になると、モータリゼーションの普及により、昭和47年(1972年)3月31日に全廃されるまで約70年間走り続けました。
当時の車両を今でも保存している所があります。市営バス滝頭営業所の敷地内にある「横浜市電保存館」です。
7両が保存されており、歴史的資料としての価値も大きいのですが、保存には相当費用と手間がかかる、とのことです。
昔の自分に会ってみてはいかがですか。
山下公園の大桟橋側の一角に、イスラム寺院のミニチュアのよう塔があります。それは、関東大震災にて被災した同胞への援助と救済に感謝して、昭和12年に当時の横浜インド商組合から横浜市に贈られたものです。
横浜開港の4年後にはすでにインド人貿易商がここ横浜に商売の拠点を設けたとの史実からも、横浜とインドとのつながりの深さを伺い知ることができます。
今、日本での商売の拠点として、神奈川県や横浜市、貿易に関わる諸団体が、インドに対し誘致の輪を広げています。また、県内市内企業のインド進出も盛んになってきています。さらに、インドへの深い理解と共存の為に、大インド祭り「ディワリ・ヨコハマ」も、毎年、山下公園で開かれています。
インドでは10月にディワリというお正月のお祭りがあります。「光の祭り」と呼ばれ、ランプを並べる風習があります。女神達が家に福をもたらしてくれると信じられ、家の大掃除をして福を呼び込みます。
正月当日には新しい服を着て、家の門にはおめでたい模様を描いて新年を祝います。なんだか日本のお正月に似ていますね。
日本には、陰暦8月15日の夜に行う「十五夜」と陰暦9月13日の夜に行う「十三夜(後の月見)」という2つの「月見」があります。
「十五夜」は、もともと、陰暦8月15日を「仲秋節」とする中国で催されていた「観月の宴」が日本に伝わったもの、「十三夜(後の月見)」は月の満ち欠けを暦代わりにして農耕を営んでいた古代の日本人が、秋の収穫を神々に感謝する「月祀り(つきまつり)」が発祥とされています。
奈良・平安時代には宮廷の洗練された風雅な遊びとして催されていたこの「2つの月見」は、武士の時代に稲の初穂・里芋・枝豆・団子と共に、新米で醸した酒を供え、神と「月見酒」を酌み交わし豊作を感謝する風習として、庶民にも定着していったそうです。
このように昔から、日本人は自然と心を通わせ合い、季節そのものを酒の肴に楽しんできました。
冬の雪見酒、春の花見酒とならぶ秋の月見酒。
たまには、古来の人々を見習って、酒の肴に月を眺め・・・なんて風流な楽しみ方でゆっくりと心を落ち着け、四季を感じてみるのも良いのではないでしょうか。
山手駅から山手公園方面へ向かう途中、本牧側から山手の高台をゆるやかに登るビヤザケ通りの途中にこの記念碑は建っています。
1870年(明治3年)、ウイリアム・コープランドは「ブラフ」と呼ばれた山手の居留地2480坪の土地に、「スプリング・ヴァレー・ブルワリー」というビール醸造所を建て、日本で初めてのビールを醸造しました。
その事業を麒麟麦酒株式会社が引き継ぎ、この地を日本ビール発祥の地として開源記念碑を建てました。
現在、横浜市立北方小学校やキリン園公園のある一帯です。
地形は両側を丘で囲まれた谷間で、敷地の一角には一周200メートルの池がありました。
敷地の半分は丘陵地で、地下には全長210メートルの横穴が掘られ、夏でも温度がさほど高くならないのでビールの熟成には好都合でした。
この季節、ビールを飲む機会が増えますが、開源記念碑の話を酒の肴にいかがでしょうか。
あちこちで祭りやお神輿を見かけるようになると夏も本番。私も街に出て、祭りの人だかりを見かけると、つい、そちらの方へと足が向かってしまいます。
最近は、お手軽に写真を撮る事が出来るようになった為か、祭りでもデジカメや携帯カメラなどで撮影している人を多く見かけるようになりました。
その反面、危険を顧みずに列を飛び出して、祭りを撮影しようとする見物客が増えてきたそうです。良い写真を撮りたい気持ちは分かりますが、祭りで事故を起こしてはつまらない。
祭りは参加・見物する人が多ければ多い程、にぎやかで楽しいものです。ですが、古来より、その土地土地のルールが存在しており、参加する側だけでなく、見る側にも心掛けなければならない事があります。
祭りに「参加させてもらう」「見物させてもらう」と言うことを大切にする。これが、その祭りをいつまでも楽しく、変わらないものとして残していけるヒケツの様な気がします。
普段、人通りのまばらな商店街が、夕方頃には夜店の準備でにわかに活気づく。そして、それに誘われてきたかのように、地元の子供達がどこからともなく集まってくる。
今年も、一と六の付く日になると、伊勢佐木町7丁目一六地蔵尊通りで縁日が始まります。
私もこの日になると、夕方からは仕事が手に付かず、祭りが始まる頃には、「息抜き」と称して、出向いてしまいます。
色々な笑顔が溢れる通りの中を夜店から夜店へと周りの子供たちに紛れて楽しむ。
やはり日本人。大人でも、子供でも、祭りは楽しいものです。
毎年、この風景を眺めていると、時代が変わっても「祭りを楽しむ」気持ちは変わらないのだなと感じ、どこか安心してしまいます。
今年も、これから9月までの短い期間ですが、目一杯、楽しませてもらおうと思います。
1859年6月2日(陰暦の7月1日)、黒船が来航してから6年後のこの年に横浜港が開港しました。
横浜の初夏の風物詩として定着している開港際は、もともと、この日を祝うためにと1982年から始まったイベントで、昨年においては、約75万人という過去最大の動員数を記録するまでに大きくなりました。
今年も、横浜市内のあちこちでは、早くから「ステージイベント」「マリンイベント」「ランドイベント」「開港記念スペシャルイベント」と4つのカテゴリに分類された催し事が繰り広げられ、街中が開港際一色となっていました。
また、6月3日には、「ビームスペクタクル in ハーバー」と名付けられ、音楽とレーザー光線等による光と花火のコラボレーションをテーマにした花火大会がフィナーレを飾りましたが、会場では終始、多くの見物客から歓声が横浜の空に鳴り響いていました。
横浜市街の中心に位置し、横浜スタジアムがあることでも有名な横浜公園ですが、春のチューリップが見事なことをごぞんじでしょうか?
公園の西側から北側にかけて、木立のある一帯を埋め尽くす16万本のチューリップの花は見事なもので、開花の時期には連日多くの人々が鑑賞に訪れて、すっかり横浜の春の風物詩として定着しました。
チューリップの花は1997年(平成9年)に横浜市中区の区政70周年を記念して「区の花」に制定され、ロゴマークなども定めて区が普及に努めています。
横浜公園のチューリップはその象徴とも言えるもので、そのほとんどが横浜市緑の協会のボランティアスタッフの皆さんと近隣の小学校4校の子どもたちによって、前年の秋に植えられました。そのおかげで、春になると美しい花を楽しむことができます。
いろんな品種や色彩のチューリップの花が咲き誇る様子は、花に興味の無い人でも一見の価値があると思います。もちろん花の好きな人、花の写真の趣味のある人などにとっては、この季節の横浜公園はぜひとも訪れてほしい場所です。
100万本の花と緑で横浜を彩どる第33回全国都市緑化よこはまフェアが開幕しました。
主な会場の「みなとガーデン」は、山下公園・港の見える丘公園・日本大通りなど。
「里山ガーデン」は、緑区、そして旭区にまたがる、全国都市緑化よこはまフェア「里山ガーデン」、横浜動物園ズーラシアの横です。
一度ご覧いただくと「こんなに素晴らしい景色が横浜にもあるんだ!」ということを感じて頂けると思います。
全国都市緑化フェアは、緑の大切さを認識し、緑を守り、愉しめる知識を深め、緑がもたらす快適で豊かな暮らしがある街づくりを進めるための普及啓発事業として、昭和58年(1983年)から毎年、全国各地で開催されている花と緑の祭典です。
「ガーデンネックレス横浜2017」を愛称として、今年3月25日(土)〜 6月4日(日)の72日間開催されます。
現在、山下公園に係留し横浜のシンボルとして多くの人々から愛され続けている「氷川丸」。
現役当時には、その優雅な外観と「日本郵船の食事は帝国ホテルに優るとも劣らない」と謳われたほど質の高い船内サービスを提供した事から「北太平洋の女王」と称された戦前における日本の代表的な客船の一つです。
この船を建造したのは、横浜港発展の基礎を築き上げた「横浜船渠株式会社」(現:三菱重工業株式会社横浜製作所)。
氷川丸には、復動大型ディーゼル機関の搭載やSOLAS(海上人命安全のための国際条約)を先取りした水密区画が採用されるなど、当時の最新鋭の造船技術が施されただけでなく、内装を手掛けたフランスを代表する船室デザイナー/マーク・シモンが採用したアールデコ様式は、1925年のパリ万博で発表されたばかりの新しいデザインといった様に、当時の最先端とされるものが随所に盛り込まれています。
1930年(昭和5年)に向け地をシアトルに処女航海を果たした氷川丸は、それ以後、1960年(昭和35年)に引退するまでの間、皇族の方々や喜劇王チャーリー・チャップリン、宝塚歌劇団をはじめとした多くの乗客達を乗せ、戦前・戦後を通じて幾度となく北太平洋を横断し続けました。
当時の推進・操舵・荷役装置といった機関や、造船技術や戦前から活躍し続けてきた唯一国内に現存する客船という点で造船技術史・建築史・近代史的に非常に高い価値を持つこの船は、2003年(平成15年)11月、水面に係留された船舶としては初の横浜市指定有形文化財に指定されました。
横浜開港より日本の海の玄関としてその役割を果たしてきた大さん橋。その大さん橋が2002年に老朽化のため大規模な改修工事を経て、複数の大型船舶の同時着岸を可能にする近代的なターミナルとして新しく生まれ変わりました。
新しくなった国際ターミナルは、外観は全体的に丸みを帯びた滑らかなシルエット、内部には柱や梁・階段などを一切使用しない開放感溢れる空間の演出といった、独創性と機能性が融合したデザインが特徴的な建物ですが、その中でも最も印象に残るのは床一面に使用されている「木」ではないでしょうか。
この落ち着いた雰囲気のあるターミナルでは、屋上広場・ホール内など内外を問わず「安らぎ」や「憩い」の場として自分達の時間を過ごす人々をよく見かける事ができます。
この床材に使用されている木材は「イペ」というノウゼンカズラ科の樹木で、水に沈んでしまうほど重硬かつ、耐朽・耐候・耐塩性に非常に優れているため屋外においても半永久的に使用できるという特徴を持ち、防虫・防蟻の効果をもたらすという面白い一面も持ち合わせているブラジルの国樹だそうです。
大残橋には、イペが床材として長さ30〜40m・直径1mのサイズで300本分(約1,800立方メートル)に相当する量が使用されていますが、これらは全て、樹齢100〜200歳の充分に成長した木を対称に1ヘクタールあたりで2〜3本に限定する「選択伐採」という非常に厳格な条件によって伐採されたものだそうです。
この様に、作り手の気持ちが様々な形として大切に込められ造られた大さん橋。そんな「温かみ」のあるこの場所では、屋上広場・ホール内など内外を問わず「安らぎ」や「憩い」の場として自分達の時間を過ごす人々をよく見かける事ができます。
横浜中華街にはお正月が2回やってきます。
一つは西暦のお正月。もう一つは旧暦のお正月です。
まずは西暦で迎春カウントダウン。
街のあちこちで爆竹が焚かれ、山手の丘を揺るがすように鳴り響き、獅子舞や龍舞が街に繰り出します。
次は2月の旧正月。こちらが本来のお正月で、観光客や新年会で賑わう中華街は、より一段と華やかになります。
中国伝統文化の豪華絢爛な公演や華やかで勇壮な祝舞パレード、もちろん爆竹や獅子がご祝儀をパクリと飲み込む採青(さいちん)も行われ、シンバルや太鼓、銅鑼の音がうねりのように街を包み込み、穢れを払い、新しい年を祝います。
灯籠や、伝統的なモチーフが用いられた大きなランタンが街中に取り付けられ、来訪者を鮮やかなあかりで出迎える「春節燈花」も11月からすでに行われています。
横浜中華街が一層パワーアップする季節です。