みなとみらい地区の象徴として、ニュースのエンディングやドラマ撮影などでおなじみの「コスモクロック」。
平成元年に開催された「横浜博覧会」の施設として建造された大観覧車です。
その時点での「世界最大の観覧車」「世界最大の時計」としてギネスに登録され、また素晴らしい眺望でも評判を呼び、博覧会終了後も営業が行われました。
その後、みなとみらい地区の開発が顕著になり、解体され営業を終了する運びとなりました。
しかし、10年近くもの間、横浜の象徴として親しみを持った人々が大勢いました。そうした市民からの復活を望む声が大きくなり、自然発生的に署名が集められました。
そうして嘆願が実り、居を移して運営が再び始まり、現在に至っています。
海面に林立する竹竿は、海苔を養殖する「のりひび」です。
この写真はいつ頃の写真だと思われますか?なんと1960年代頃の本牧市民プール周辺から三渓園の方を望む写真です。
ほんの50数年前の横浜の姿にびっくりさせられました。
横浜の漁業が全盛だった昭和30年代は、まだ正常な生態系が維持され、海苔は儲かる商売で、多くの漁師が冬場に海苔づくりに励んでいました。
現在、横浜市では金沢区の野島海岸と海の公園の一角で見られ、東京都から三浦市にいたる東京湾の西側を見渡しても、従事する人は減り続けて現在は全市で10軒もありません。
平潟湾沿いなどにある漁師の加工小屋を訪ねれば、直接買うことができるかもしれません。
今や貴重品になってしまいましたが横浜産の海苔を是非一度味わってみてください。
本牧十二天社として由緒ある神社で、お馬流し神事で知られています。
本来、本牧十二天の景勝の地にありましたが、米軍による本牧地区の強制接収などのため移転を余儀なくされました。(この写真は1920〜30年ごろの貴重なものです。)
「十二天」は魚網の中に十二天のご神体が出現し、それを祀(まつ)った本牧村の鎮守、十二天(本牧神社)にちなんで名付けられました。「十二天」とは、東西南北に西北・西南・東南・東北、そして上・下、それに月と日を守護する十二の天部で、バラモン教の神々が仏教に入り、密教では曼茶羅(まんだら)に配されます。
帝釈天(たいしゃくてん)(東)・閻魔天(えんまてん)(南)・水天(すいてん)(西)・毘沙門天(びしゃもんてん)(北)・火天(かてん)(東南)・羅刹天(らせつてん)(西南)・風天(ふうてん)(西北)・伊舎那天(いしゃなてん)(東北)・梵天(ぼんてん)(上)・地天(ちてん)(下)・日天(にってん)(日)・月天(げってん)(月)の総称です。
町内に中部下水処理場、小港南公園があります。
「横浜の町名」(横浜市市民局)より
♪カステラ一番、電話は二番♪の歌詞でおなじみ、皆が知っているCMですよね。横浜文明堂の販売各店の電話番号は、そのほとんどの店舗が本当に0002番です。
文明堂は1900年(明治33)、長崎で中川安五郎が創業し、このほど120周年を迎える、歴史ある製菓メーカーです。
創業の14年後の大正3年、上野で開催された大正大博覧会に出展し、大好評となった事を足がかりに、上野、神戸へと進出。
そして、昭和8年、伊勢佐木町4丁目に横浜本店を構え、映画館や芝居小屋への見物客で混み合うこの通りを、一段とにぎやかにしたそうです。
当初、その味を知るのは限られた上流の人々だけでありましたが、徐々にその噂を聞きつけて惹かれた一般の人々にも広まるようになりました。
さて、ここでクイズです。
カステラは洋菓子でしょうか? Yes? No?
答えはNo。確かにカステラは南蛮菓子をヒントに作られていますが、日本で製法が考えられ、独自に改良を重ね、現在のものになったとして、和菓子として分類されています。
伊勢佐木町1丁目店の喫茶部では、イートイン限定で、どら焼き「三笠山」の“皮”を熱々で楽しむ事が出来ます。
また、厳選された材料と最高の技能を持つ職人がつくり出す、特選極上カステラ「金カステラ」も横浜文明堂の直営店でのみ味わえます。
輝かしいばかりの幸せの黄色(金色?)を、ぜひ貴方も…!!
「ピイイィーッ!!」
ホイッスルの音にびっくりして立ち止まると、それは山下町消防署の奥から聞こえてきました。小さな赤い丸を2個付けた、高さ10mはありそうな大きな白い板を縦にくくりおき、装備を装着して、1名ずつ上がったり降りたりして、タイム計測をして訓練している合図の音でした。
開港と同時に代官を指揮者とした8消防隊が結成され、次の年には廛六(てんろく)消防と呼ばれる外国人居留地消防も誕生しました。
居留地消防隊は現横浜ユーラシア文化館裏を明治4年から明治32年まで本拠地としました。その後、その地には横浜市消防本部が置かれ、平成6年まで日本大通消防出張所とされました。その間、日本初の消防自動車に次いで日本初の救急車が配備されるなど、ここ横浜は近代消防ゆかりの地です。
居留地消防隊が防火貯水槽として建造された遺構は今でも見ることが出来ます。今年で149年を迎えるこの防火貯水槽は堅牢で、今でもきちんと地下に水を蓄えているのだそうです。
日本は古くから七夕の習慣もあり、冬に限らず夏の星空も愛されています。
天体ショーは大小様々なものが、毎年世界各地で何かしら見られますが、8年前にもビッグショーがあったのです。
それは金星の太陽面通過と呼ばれるもので、TVニュースなどでご記憶の方もいらっしゃるでしょう。
金星の太陽面通過とは、金星が太陽と地球の間に入る現象で、周期的に非常にまれな現象です。
紅葉坂の青少年センター前にあるこの碑は、1874年(明治7)にメキシコから来たチームが横浜で観測した事を記念して、100年後の1974年に建てられたものです。
このメキシコ隊のほか、アメリカ隊は長崎、フランス隊は神戸へと来日し、観測をしました。
金星の観測はもちろんの事、各チームと連携し、経度差観測も行い、日本の正確な経度がこの時初めて決定されたのです。
次回の金星の太陽面通過は、2117年12月11日になります。
ライトダウンして星を楽しもう、というスターウィーク(8/1〜7)、ぜひ、夜空を見上げてみましょう。
今回はお洗濯事情のお話です。
居留地外国人が増え、洋服の数が増え、西洋式洗濯の需要が爆発的に増加するのは必定。
開港間近に青木屋忠七に外国人向けの洗濯営業許可が与えられ、本町にて国内初の西洋式洗濯業がスタートする。その後、長崎で本格的に西洋洗濯を学んだ渡辺善兵衛が横浜に戻り、開業。
この渡辺氏とフランス人ドンバル氏に教えを受け、居留地に住む外国人の邸宅にほど近い、港の見える丘公園の坂を下った場所である谷戸の地に、清水屋脇沢金次郎が大きく営業し近代企業化の礎を作ったのである。
「西洋洗濯どこからはやる、はやる横浜谷戸の坂」と歌われ、クリーニングの認知度は上がっていき、今日私たちが気軽に自分の洋服を洗いに出せるようになってきたのです。
良質の水を多く保有する山手の丘。
ビール醸造、船の飲み水、あいすくりん、石けん製造などなど。
この水は、横浜の産業の母とも言える、なくてはならない物だった事を改めて知る事になった。
横浜山手は景観のよい観光地で全国的に有名ですが、名門の女学校やインターナショナルスクールが建ち並ぶ文教地区でもあります。
最も古いのはフェリス女学院。幕末に来日したアメリカ人宣教師ジェームス・カーティス・ヘボンの英学塾の門下であった女性宣教師メアリー・キダーが、1870年(明治3年)に、ヘボン氏の英学塾の女生徒を受け継いで、旧居留地39番(現在の横浜地方合同庁舎付近)にて創立されました。
次いで、その翌年、同じくアメリカの3人の女性宣教師たちが、山手48番にアメリカン・ミッションホームを創立。関東大震災後の1931年(昭和6年)に再建された木造校舎は横浜指定文化財となり、現在も、その校舎がそのまま使われている横浜共立学園。
そのまた翌年、1872年(明治5年)にサンモール会のメール・マチルド修道女が外国人子女教育および孤児養育事業を開始。1900年に横浜紅蘭女学校を開校しました。川端康成によって横浜の紅蘭女学校に通う生徒の友情を描いた作品「乙女の港」が発表されています。その後、1951年(昭和26年)に横浜雙葉学園と改称されました。
まだまだあります。山手の学園生活を描いた作品は、有島武郎によっても描かれています。本人が、7歳で入学し学習院に編入するまでの2年間を過ごした、アメリカ人女性宣教師ブリテンにより創立された横浜英和女学校です(現在は青山学院横浜英和中学高等学校として蒔田に移転)。1880年(明治13年)の創立当時はまだ男女共学で、童話「一房の葡萄」でその学園生活を偲ぶ事ができます。
最寄駅のJR石川町駅から下車して、学校に着くまで、山手特有の急坂を登っていきます。生徒たちが一生懸命に登っていくその坂を、地元の人たちは愛着を持って「乙女坂」と呼んでいます。
1860年2月、太平洋横断航海に挑もうと、勝海舟率いる咸臨丸が出航しました。翌月に桜田門外の変で井伊直弼が暗殺されるというそんな時期でした。
その船のなかに、弱冠16歳の町田房蔵も乗り組んでいました。
渡航地アメリカは、産業や経済で沸きに沸いている時。そのアメリカで、房蔵はアイスクリームの作り方を学び、帰国しました。
そして、ついに1869年5月9日馬車道で、日本初の「あいすくりん」の製造販売を始めました。
当初は、牛乳が普及していなかった事と値段の高さで、売れ行きは芳しくなかったようです。
しかし、その後、居留地の外国人が買い求めたり、鹿鳴館も開館し、世の風潮が「欧風」をもてはやし始めたことから、あいすくりん人気は爆発し、広く世間が知る代物となったようです。
この「太陽の親子像」は、日本アイスクリーム協会より、アイスクリーム発祥の地を記念して寄贈されたものです。
馬車道ではこの記念日にちなんで、鹿鳴館スタイルの女性が「あいすくりん」を無料配布する記念イベントが毎年行われています。
メール全盛の今だからこそ、手紙が届くととても嬉しいものですね。
明治4年に発足された郵便という通信手段。
それ以前は時代劇でおなじみの飛脚さんが民間の通信手段を担っていてくれました。
日本での郵便の仕組みを作った前島密(ひそか)は郵便の父とも呼ばれています。
幕末生まれで上越出身の前島密は、もともと医者を志していた少年ですが、もっと医学を勉強するため、医者の見習いとして江戸に出てきました。
その江戸で、18歳頃、ペリー来航を見て、感じ、衝撃を受けました。
船がもたらす「世界とつながる海運」の重大性を認識し、諸国を見て回る旅に出て見識を広めました。
その後、新政府の職員となります。
以来、運輸とそれに基づく郵便事業、電話事業、鉄道事業、外国との交流がもたらした新しい教育、次々と精力的に尽力していきます。
地図で見ると、この国際郵便創業の局である横浜港郵便局を中心に、前島密が関係した旧諸役所や会社、施設の建物が本当にたくさんあります。
現行1円切手でその姿も見られますが、明確な未来像を持ち熱意に満ちた、確固たる信念の人物だったのだなぁと思いが伝わってきそうな気がしてきます。
国内の銀行再編が多く行われたのが一昔前の感ある昨今ですが、昔の地図を見ていると、今はない銀行をたくさん見つける事が出来ます。
特に関内や本町周辺には、大正から昭和初期建築の歴史的価値を持つ銀行が多くあります。その殆どが、建設当時から「○○銀行横浜支店」で、決して本店ではありませんでした。
本店ではないのに、なぜああも豪奢な建物になったのでしょうか。東京はもとより、開港以降の横浜の経済発展が、いかに著しかったかを物語ってくれます。
今なお現役営業中の建物の銀行もありますが、新しい利用をされている建物もあります。
馬車道海側の旧富士銀行横浜支店は安田銀行横浜支店として昭和4年に建設されました。戦火をくぐり、富士銀行、みずほ銀行と名を変え、支店統廃合の際に横浜市に売却されました。
平成17年からは東京藝術大学横浜キャンパスとして第二の歩みを始めています。
紅葉坂を上がり能楽堂を右に行けば、井伊直弼の銅像のある、清々しい眺望の掃部山公園に行き着きます。
井伊直弼は11代彦根藩主の14男坊(!)として生まれ、36歳の時に藩を継ぎ、44歳の時に江戸幕府の大老職に就任します。
強引とも思える日米修好通商条約の調印で、開国反対派たちへの死罪を含む粛正を行った「安政の大獄」を引き起こしてしまいます。それが遺恨となり、46歳の時に「桜田門外の変」で暗殺されてしまいます。
そういう人物として知られている井伊直弼。
実は風雅の道で、この人ありと言われた人物でもあります。
各種武術の一通りを修めたことはもとより、禅、学問、茶、書、歌、能、狂言、なんでもござれのスーパー風流人だったそうです。
本当にいたんですね。時代マンガに出てくるような人。
ことに茶道には一層傾倒していて、一派も興していたそうで、今でもその片鱗を現代の私たちにも伝えてきています。
「一期一会」
この言葉は彼の書いた茶道の本で記された言葉ですが、ご存知の通り、一生一度しかない出会いを大切にしようという言葉です。
本来は侘び茶の茶会での精神道であるそうですが、実生活においても重要な考え方であるため世に広まったのでしょう。
スピードばかりが重視されがちな世の中だけれど、時々立ち止まって自分を振り返ろうと感じた年明けです。