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YOKOHAMA コラム バックナンバー

横浜シルク 2021/12/13


 実は横浜は世界にその名を知られたスカーフの名産地。
 江戸にも近い地の利を生かし、もともと染め物業が盛んだった横浜だが、横浜港での輸出や居留地外国人からの需要もあり、開港とともにその技術が花開きました。

 世界最高の技術とその仕立て上がりに惚れ込んだ海外有名ブランドが、こぞって自社製品を発注する程です。
 オリジナリティに溢れた豊富な絵柄、熟練の技術を持つ職人により手作業で丁寧にされた捺染。
 そのどれもが、絶え間ない日々の研究改良と努力により、世界中のスカーフ業者の追随を許しません。

 生糸の集積地としての横浜。
 卓越した染めの技術の横浜。
 輸送港としての横浜。
 その立地で、現在でも世界有数のスカーフ生産地として名を馳せています。


日本最初の石けん工場発祥の地 2021/11/04



 ここ横浜には多種多様のはじめて物語があります。
 そのなかでも今回ご紹介するのは最も生活に密着している「はじめて」だと言えるでしょう。

 磯子村の村役人を務める堤磯右衛門(つつみいそえもん)は、慶応2年(1866)に横須賀製鉄所の建設に関わっている際に、建設を指導するフランス人技師が石けんを使うのを見て、石けんの存在を知る事になります。

 国内で手に入る原料で石けん製造の実験を始め、材料の工夫を凝らし、現在の石けんほど上質ではないながらも、明治6年にようやく完成します。
 石けんを作る上で非常に重要な役割をする材料に苛性ソーダが使用されますが、当時は国内製造はおろか輸入もされていなかったので、タバコの茎を焼いて灰にし、代用したようです。それさえも手探りながら発見に至ったのでしょう。

 磯右衛門の石けんは高く評価され、国内流通の他、香港、上海にも輸出され、事業は花開く事となりましたが、時代の不況のあおりをうけ、明治26年に廃業してしまいます。

 その石けん製造所の記念銘板が南区万世町子どもの遊び場に掲げられています。泥遊びに興じた子どもたちが帰宅し手を洗う様子を想い、銘板は微笑んで見つめているのでしょう。


中国の古い神話のお話 2021/10/03


 一つであるはずの太陽が、ある時十個も現れました。
 緑多き肥沃な大地は灼熱の大地へと変わり、作物も枯れ果て、命が失われてゆきました。
 これを憂えた時の帝は、弓矢の名人ゲイに9つの太陽を撃ち落とせと命令しました。
 見事射落としたゲイは、崑崙山に住む大女仙のサイオウボから不老不死の秘薬をその褒美として授かります。
 ところが、ゲイの妻であるジョウガがその秘薬を盗み出してしまったのです。
 追ってきたゲイに気がついたジョウガは、ウサギが月で薬をこねている事を思い出し、月に駆け上っていきましたが、その罪のためかヒキガエルに姿を変えられてしまい、その姿のまま月で暮らす事になったのです。
 日本の月見はこの伝説が伝わって、更に日本独自の風習と混ざり合い、現在の形になったとも言われています。

 日本では月見団子のお供えですが、中華圏では月餅が用いられています。
 月を美しく思い、愛でる気持ちは人類共通です。


横浜産の梨「浜なし」 2021/09/06


 一般的には緑が少なく建物ばかりと思われがちな横浜ですが、少し郊外に出れば多くの緑に囲まれています。
 「横浜開港菜」や「はま菜ちゃんブランド」でおなじみの横浜産野菜は青果店などでお目にかかりますが、市内産農産物は野菜だけではありません。

 幻の梨と呼ばれている「浜なし」をご存知ですか。
 浜なしとは梨の品種ではなく、市内産の梨の統一ブランド名です。
 主な品種の豊水、幸水、新水が「浜なし」の約9割以上を占めています。

 一般的に、果物は店頭に並んだ時に完熟の状態になるよう、あらかじめ完熟の少し手前で収穫されていますが、「浜なし」は本当に美味しい完熟果を食卓へ届けたいとの思いから、完熟を完熟の時に収穫しています。
 新鮮なうちに果樹園の店先やJAなどの直売所で販売する為、青果店やスーパーなどの流通では見かける事ができません。それが幻の梨と呼ばれる所以です。

 直売所でも午前の早いうちから完売、お取り寄せなどでも大人気など高い評価を受けています。


開運勝利の神様「清正公」 2021/08/03


 気になっていたのです。あの門柱。
 伊勢佐木町のなじみの店に食事に行く道すがら、よくあるタイプの“通り”を表す高い門柱。「SEISYOKO STREET」の文字と「清正公」の丸いヘッドマーク。
 飲食街ということもあり酒造会社が建てたのかと思っていましたが、そこは戦前から「清正公通り」だったのです。

 この伊勢佐木町がある場所は、古くは吉田新田と言われ、入り江だった場所を吉田勘兵衛により埋め立て開発された土地です。
 信心深かった勘兵衛翁は、新田完成後、この地の守護のために二神社と二寺院を招請しました。
 そのうちの常清寺は長者町8丁目に建立され、その後に清正公堂も同寺内に祀られました。

 秀吉の家臣で、賤ヶ岳の七本槍と称えられ、秀吉死去後は徳川派となり、動乱の戦国を巧みに生き延びた、逸話も多い加藤清正。
 その強運と加護にあやかろうと当時の人々は崇敬を高め、大いに賑わっていたようです。

 戦災後、常清寺は南区清水ヶ丘に移転。清正公堂もその後に移転していましたが、平成10年2月に吉田家十二代目が土地と公堂の建築を提供し、現在の地に清正公堂が再築されました。

 多くの必勝祈願の参拝者が途切れることなく訪れています。


西洋野菜 2021/07/01


 現代の脳外科医が激動の幕末にタイムスリップするというドラマが評判です。江戸、長崎、京都などが舞台となっていますが、横浜ともいささか接点があります。劇中では元花魁がフランスの貿易商人と結婚し、数年間を横浜で暮らしています。

 居留地で暮らす外国人たち共通の悩みは「母国の料理が食べたい」。
 食肉や保存の利く調味料はなんとか工面できる。が、新鮮さが要求される野菜だけはどうにも手に入らない。
 神奈川奉行所は、居留地外国人のために横浜開港1859年の翌年から、アメリカ麦の試験栽培を生麦と鶴見でスタートさせた。
 1863年には、西洋人指導のもとに、当組合最寄りの中区末吉町にてキャベツ、セロリ、ニンジン、ラディッシュ、トマト、サヤエンドウ、パセリの栽培が本格的に始まった。
 今後の重要拡大を見込んで、その後も多様な西洋野菜を栽培する農家が次々と増え続け、中区の丘陵地や磯子、子安、鶴見、港北などでも栽培が広がっていき、今日の食卓事情へとつながっていく。

 横浜市は開港150周年の節目に、蕃茄(ばんか)=トマト、西洋ウド=アスパラガスを含む、横浜から広まった西洋野菜14種を「横浜開港菜」と名付けている。

 畑は現在ではもう知るよすがもないほどに開発され、工場やマンションが立ち並ぶが、先人達が新しい行動を起こし続けていった積み重ねの上に現在の私たちの生活が成り立っていることを、自分の足下にあるであろう土に思いを馳せる。


プラネタリウムで星空散歩 2021/06/06


 子育てをしていると自分自身の子どもの頃を追体験する事が多々ある。
 忘れてしまったものにもう一度出会って再会するような不思議な時です。

 ここ「はまぎんこども宇宙科学館」は、子ども時代の自分に会える場所です。
 昭和59年に科学の不思議をテーマに横浜こども科学館の名称で開館し、平成20年からは市のネーミングライツ事業により「はまぎん」の冠名がついています。
 宇宙を軸に、光や電波、電磁波などをわかりやすく体験、学習できる科学館として、子どもを中心に地域の人々に愛され続け、昨年は累計入館者700万人を超えました。
 子ども達にはアスレチックのような宇宙トレーニング室が大人気ですが、大人は直径23mもあるプラネタリウムドームで心を洗いましょう。
 技術革新により、プラネタリウムの投影機も番組も今までの既成概念をはるかに超えて、迫力のある映像を体験するスピリチュアルエンタテイメントの場としても徐々に認識されつつあります。

 星空を飽きる事なく見つめ続けていた「あの頃」。
 子どもの頃の自分と今の自分が、一緒にタイムトリップする、妙に心落ち着く時間です。


チューリップ 2021/05/11


 横浜市街の中心に位置し、横浜スタジアムがあることでも有名な横浜公園ですが、春のチューリップが見事なことをごぞんじでしょうか?
 公園の西側から北側にかけて、木立のある一帯を埋め尽くす約70品種14万球のチューリップの花は見事なもので、開花の時期には連日多くの人々が鑑賞に訪れて、すっかり横浜の春の風物詩として定着しました。

 チューリップの花は1997年(平成9年)に横浜市中区の区政70周年を記念して「区の花」に制定され、ロゴマークなども定めて区が普及に努めています。
 横浜公園のチューリップはその象徴とも言えるもので、そのほとんどが横浜市緑の協会のボランティアスタッフの皆さんと近隣の小学校4校の子どもたちによって、前年の秋に植えられました。そのおかげで、春になると美しい花を楽しむことができます。

 いろんな品種や色彩のチューリップの花が咲き誇る様子は、花に興味の無い人でも一見の価値があると思います。もちろん花の好きな人、花の写真の趣味のある人などにとっては、この季節の横浜公園はぜひとも訪れてほしい場所です。


日本洋裁業発祥の碑 2021/04/07


 新しい制服や式服など、春は改まった服を着る事がとても多い季節です。そういった服は、気分をとても晴れがましいものにしてくれます。

 およそ150年前の横浜開港当時、ご主人の赴任などで一緒にやってきた外国からの奥様がた。トランクにたくさん服をつめて来日した事でしょうが、日本での暮らしが永くなれば、どうしたって新しい服は入り用になるものです。
 自分たちで仕立てるのも手一杯になり、日本人の和服仕立て職人や足袋職人に依頼を始めます。和装の中でも、足袋は比較的立体的に裁断されているので、足袋職人は重宝されたのでしょう。

 そんな中、1863年、英国人ミセス・ピアソンが居留地97番に日本初女性専門の洋裁店をオープンさせます。
 日本人の職人達も、手探りながら立体的に裁断、縫製する技を身につけてゆき、外国からの職人とも、互いに切磋琢磨し合いながら洋裁業という新しい職種を切り開いていきます。
 この洋装の貴婦人像はそのピアソン夫人がオープンさせた店のその場所に建っています。

 横浜が新しい未来を切り開いていくのを、「晴れの装い」をまとい、見つめているのでしょうか。


貴族の若様のような建築物 2021/03/01


 馬車道を抜けると赤れんがの帯が印象的な建物群が見えてきます。
 なかでも一番大きな横浜第二合同庁舎は、平成7年に、旧横浜生糸検査場時代の本庁舎の外観を建築遺産の観点からできるだけ建設当時同様に再建し、新たに高層階を新設した建築物です。

 旧横浜生糸検査場は、日本産生糸の品質向上とそれによる海外での市場拡大を図るために、大正15年に建設されました。
 設計は横浜三井物産ビルや旧横浜正金銀行(神奈川県立博物館)、横浜銀行協会(旧横浜銀行集会所)も手がけた日本人設計者の遠藤於菟(おと)氏。
 赤れんがの帯はレジメンタルやロンドンストライプを連想させながら、蚕や繭、桑の葉、花、実などを意匠化した紋章やレリーフも随所にちりばめています。

 モダンと伝統を感じさせる建築物です。
 同じ外観の意匠を持つ北仲ブリック(旧帝蚕倉庫、旧旧生糸検査場倉庫棟)と隣同士に並び、街の一角に統一感をもたらしています。
 現在は歴史的建造物の外観保全が盛んな横浜市ですが、この横浜第二合同庁舎はその先駆け的な建物ともいえるでしょう。


大人気の橋 2021/02/01


 馬車道通りから合同庁舎ビルを抜けた先にかかる橋があります。
 関内と新港ふ頭を結ぶ為に造られた「万国橋」。
 物流を担う橋として昭和15年に竣工され、拡張と耐震補強を経て、今現在は関内方面からの観光のプロムナードとしても多く利用されています。
 また、MM21地区の主要な建物がフレームに入るとして、ドラマや映画、撮影のロケ地としても大人気です。数えきれないほど多くの物語の重要なクライマックスシーンで利用されています。
 「かながわの橋100選」にも認定されたその風景は、昼夜を問わず素晴らしく、頻繁に撮影で利用されるのもうなずけます。

 ですが、その開けた眺望と開放感は画面だけでは表しきれません。
 圧倒的なスケール感と、風を感じ、水を感じ、五感に訴えかける何かがここにはあります。


弁天様は海の女神様 2021/01/04


 「災」「令」この次に来る漢字、わかりますか?
 答えは「密」。
 勘のいい方はお気づきかも知れませんね。

 これは、日本漢字能力検定協会が2020年12月に京都・清水寺の森清範貫主が揮毫した「今年の漢字」です。
 2019年の「令」は、新時代の希望を託した年を受けての決定でした。

 2021年はもう少し晴れ晴れした心持ちで暮らしたいですよね。気分転換も兼ねて「七福神巡り」のお散歩に出かけてみてはいかがでしょう。
 横浜には磯子七福神、瀬谷七福神、港北七福神、金沢七福神、の4つの七福神巡りがあります。
 七福神の信仰は古く、鎌倉時代からとも安土桃山時代からともいわれています。恵比須尊は商売繁盛の神様。大黒天は豊作の神様。弁財天は学問と財福の神様。毘沙門天は勝負事の神様。布袋尊は開運・良縁・子宝の神様。福禄寿は福徳・長寿の神様。寿老人は長寿と幸福の神様。
 七人の神様たちは神道、仏教、仙人、と、宗教の壁を越えてバラエティに富んでいます。日本人の宗教観の現れとも思えるのですが、将来を明るくしたいのはどの時代でも一緒なんだなぁという事に気づかされます。

 おせち料理にも七福神にもあやかって、願望だけでも見通し明るく今年もいきたいです。