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YOKOHAMA コラム

普段の生活の中で、現在の行事やイベント、幕末から明治、大正、昭和にかけての激動の時代など、横浜ぐらしの中でふと気になったことや疑問をごそごそ紐解いています。

満船飾(まんせんしょく) 2018/05/05

 現役時代には「太平洋の白鳥」と称された日本丸が、引退後、船籍地を横浜に変更し、第二の人生を送る場所としてみなとみらい21地区のメモリアルパーク(三菱重工造船所 旧1号ドック:明治32年建造)内にその姿を見せたのが昭和60年の事でした。

 日本丸は、1930年(昭和5年)にイギリスから鋼材などを輸入し、当時の最新技術を用いて建造された西洋型帆船で、現役時代には大型練習船として約1万人あまりの実習生がこの船に乗り込み、約180万kmもの距離を帆走したそうです。

 「満船飾」は、国際信号旗を掲げ毎年恒例のイベントとして実施されます。
 今年も年内最初の満船飾として「みどりの日」に実施され、「こどもの日」には、風を受けて美しい国際信号旗を広げた日本丸が一般にお披露目されました。

 引退以来、横浜を代表するシンボルの一つとして多くの人々に愛され続けてきた日本丸の周りでは、大海原を駆けめぐっていた当時を思い描いているのか、今でも行き交う人々が時折足を止め、その美しい姿を眺めている光景を見かけます。

 現役時代さながらの美しい姿を一般に披露してくれる「総帆展帆」は、5月では13日と27日に行われますが、年間では約12回、訓練を受けた100名近いボランティアの協力の下で実施されます。


大岡川桜 2018/04/10

 当店の近くに大岡川が流れています。
 この川は、横浜市磯子区の円海山近辺を源流とし、港南区→南区→中区を全長15Km続く市内で2番目の河川です。
 昭和40年代は沿線に横浜名産のスカ−フなどの捺染工場があり川で洗う光景もよく見られました。
 現在は大岡川プロムナ−ドと称した上大岡から太田橋までの両岸延長約6㎞に及ぶ散歩道が整備されています。
 春には、桜がとてもきれいで夜にはボンボリで照らされた桜がより一層風情をかもし出します。

 しかし桜の寿命は、一般的に約60年と言われていますが、大岡川プロムナードの桜は古いもので60年を経ていると言われており、衰えが心配されています。
 そこで、南区役所では、樹木医による大岡川プロムナードの桜並木の樹木診断を行いました。その結果は半分以上の桜が「何らかの処置が必要である」と判断されました。
 南区内の大岡川プロムナードには、左岸(与七橋〜太田橋間)246本、右岸(与七橋〜白金橋間)259本、計505本の桜があります。
 中区を入れるともっと多い本数になります。


鉄道発祥の地 2018/03/05

 JR京浜東北線と東急東横線の桜木町駅の近くに「鉄道発祥の地」の鋼鉄製の碑があります。
 明治5年5月7日(旧暦)、新橋〜桜木町(当時は横浜駅)にわが国で初めての鉄道が開通し、これを記念して、「鉄道発祥記念碑」が設けられました。
 この場所は以前駅のすぐ前にあったのですが、現在駅の位置が横浜駅寄りに後退してしまったため、今は100mほど離れた場所に立っています。
 新橋−横浜間の正式営業時所要時間は53分で途中駅は6ヶ所ありました。
 運賃は 上等/中等/下等の3種類あり, それぞれ片道1円50銭/1円/50銭 となっています。 (50銭は 現在の 5,000円程度に相当するそうです)
 このような鉄道創世記を偲ぶモニュメントがありますので、お出かけの際は是非ご覧下さい。


ダイヤモンド富士 2018/02/04

 雪を冠した富士山には、見る人の心に迫るものがあります。この迫力ある富士山に、神秘的かつより迫力のある現象があることをご存じでしょうか?
 山頂からの日の出の瞬間と日没の瞬間に、山頂でダイヤモンドが輝くような光景が見られる現象をダイヤモンド富士といいます。しかし、富士山が見える地域なら、どこからでもダイヤモンド富士が見られるというわけではありません。

 横浜市中区では、この大桟橋客船ターミナルでも見られ、毎年3月10日前後の日没時と10月3日前後の日没時に見られるチャンスがあります。
 イタリア山庭園、横浜港シンボルタワー、外人墓地、根岸森林公園など、中区には何カ所か富士山ビューポイントがあります。忙しい毎日ですが、お手軽なリフレッシュとしてもってこいです。


豚屋火事 2018/01/06

 JR関内駅すぐ側の横浜DeNAベイスターズの本拠地「横浜スタジアム」がある横浜公園は、日本の野球発祥の地として初の野球の国際試合が行われた歴史ある公園です。

 元々、この場所には、太田屋新田と呼ばれる湿地帯を開発して建設された「港崎(みよざき)」と呼ばれる遊郭がありました。
 遊郭の開業は横浜開港の年(1859年)の11月で、当時「港崎町」と名付けられたこの新しい町は、開港後の発展の中で横浜名物の一つになるほど大変なにぎわいを見せ、最盛時には約1,400人もの遊女がいたそうです。

 しかし、港崎遊郭が開業して7年ほど経った1866年(慶応2年)の冬、末広町で豚肉屋を営業する鉄五郎宅を火元とした火災が起きます。
 通称「豚屋火事」と呼ばれるこの火事は、海に向かう風に煽られた炎が扇状に燃え広がり、当時関内の大半を占めていた外国人居留地や日本人町・港崎遊郭を含めた広い地域を焼き尽くした大きな火災となったのです。

 この火災によって、開港時に幕府が造った横浜の都市計画の欠点に気付いた明治政府は、計画を見直し、港崎町があった場所に、「彼我公園(ひがこうえん)」とも称される、日本人が利用可能な国内初の西洋式公園(後の横浜公園)を完成させると共に、海に向かって走る防火帯を兼ねた日本初の近代的道路として、幅60フィートの車道と、両脇に30フィートの歩道・緑地で構成された計120フィートの道幅を持つ「日本大通」を造りました。
 また、「馬車道」「海岸通り」も当時の都市計画の一環で整備されたもので、道幅60フィートで造られたこれらの道は、現在もそのままの規格で引き継がれています。

 横浜公園は、横浜スタジアム建設の際に現在のような姿になりましたが、北側の噴水や広場・池が配された日本庭園内には、かつての港崎遊郭にあった岩亀楼の灯籠が保存され、日本庭園において高度な技法とされる水琴窟(すいきんくつ)が一角に置かれています。
 また、公園の入り口には「彼我公園」を設計したプラントンの胸像が置かれ、この公園の歴史を静かに物語っています。